今日は母と「英国王のスピーチ」という映画を見てきました。励まされて「明日からがんばろう」と思えるような映画でした。ところで映画を見ながらポップコーンを食べる文化って、欧米由来なのでしょうか?ポップコーンって静かなようで、結構うるさいですよね?ポテトチップスほどじゃないけど、それでもパリパリ聞こえますよね?神経質な人(つまり私)は気になると思います。今日も隣りで母がパリパリとポップコーンを食べるのを聞きながら「静かさを重視するならどんなものがベストかしら」と映画を見ながら考えていたんですが、「ういろう」くらいしか思いつきませんでした・・・塩味のものがほしいときはどうしたらいいんでしょうね。
ところで、スウェーデンは男女平等がかなり徹底した社会なのですが、スウェーデン社会の中に入りこめば入りこむほど、スウェーデン人と深い会話が出来るようになればなるほど、自分との価値観の違いに対峙する場面が多くなってきました。スウェーデンの男女平等について簡単に説明すると、スウェーデン女性は甘えません。「女性だから容赦してもらおう」と考える人はいません。
日本でも「私だって甘えてないわ」と思う女性もいると思うのですが、「甘え」というのは「これは男の人にやってもらおう」というようなものだけではありません。例えば、「男の人を立てる/おだてる」という行為。本来、女の人は男の人より力が弱いというだけで、それ以外のことは男の人と同じくらい自分で何でもできるものです。重い荷物だってある程度は運べますし、機械だって直せる。給料のよい仕事に就くこともできます。
それができるにも関わらず、あえて男の人(主に旦那さんや彼氏)をたてる役に回り、働きやすい環境を整えるよう自然に努力している人は、大変多いと思います。男性もそれで喜ぶわけですから、それでうまく社会が回っていれば、それでもいいんです。日本みたいに。
でもフェミニズムに関心のある人や、私のように他の国の文化/価値観に触れてきた人の中には、「それでは不平等だ」と思い、「日本でも男女に平等な権利と役割を!」と思ってしまうんですね。私はそうした自分の価値観をいま住んでいる実家でも理解してもらおうと、兄弟(父は単身赴任中)に「私たち(母と私)だって働いているのに、家事を任せきりにしないで」と主張したり、料理・洗濯・アイロンとなんでもこなそうとする母に「お母さんが全部やることないんだよ。みんなでやるんだよ」と説得したりしてきました。私は家庭にフェミニズムを導入した英雄気取りでしたが、昨日 母に「お母さんは家事を苦だと思っていないし、やりたいからやってるのよ。今のままでいいのよ。変わろうとする方が苦しいな」と言われ、大変ショックを受けました。フェミニズムによって解放されるはずの女性(=母)が、それを望んでいなかったのです。
「男女平等」 への歴史が一本の線の上にあるとしたら、日本はスウェーデンに後れをとっています。「先進的な取り組みを、まだそれが出来ていない社会に普及させよう。そうすることでその社会はもっとよくなるはずだ」というのは、与える側の理屈であり、受け取る側がそれを望んでいないこともあります。簡単に言えば「大きなお世話」なことがあるのです。むしろ、その方が多いかもしれません。誰だって慣れ親しんだ文化や価値観を更新して、新しいことを始めるのは不安です。それは私がスウェーデン社会に入り込んで感じている不安そのものでもあります。
スウェーデンでは今や当たり前になっている男女平等の価値観も、元は女性を労働力として使うために国が意図して行った改革の結果でした。ちょうどその改革の時期に、これまでの価値観を更新し、新しい価値観に馴染まざるを得なかった80年代のスウェーデン女性の気持ちを考え、切なくなる今日この頃です。私も自分がどう馴染んで価値観を更新していけるのか、苦しさを抱えつつも観察を続けたいと思います。
それにしても「先進的な社会の論理を、後進的な社会にもたらして人々を幸せにする」という考えは、開発論と同じものがありますね。例えば、イスラーム社会で女性の解放をしようとする非イスラーム社会側の取り組みは、本当に現地の人にとって必要なのかというような問題です。西洋の価値観や先進国の価値観が正しいと、誰が決められるでしょう?難しいですね。